<純信坊(1819〜1888年)と鋳掛屋の娘、お馬(1839〜1904年)の悲恋物語>




土佐の高知のはりまや橋で 坊さんかんざし買うをみた ヨサコイ ヨサコイ





色白で綺麗な娘お馬は、髪が少し赤く人目についたといわれている。鋳掛屋の長女で武家奉公に出たあと、五台山(高知市)のふもとの親元に帰った。
母親の手伝いで、洗濯物を届けに寺に出入りしていたお馬は、そこで竹林寺(五台山)の僧・純信と人目を忍ぶ仲になった。お馬17歳、純信37歳であった。やがて純信の想いは、人目を忍んで「かんざし」を買うほどになったのだが、色恋はかくしきれぬもの、たちまち世間に知れわたって「不倫の破戒僧」として謹慎の身となり、お馬は寺への出入りを禁止された。“お馬恋し”と思い悩んだ純信はついに意を決して、安政2年(1855)5月19日の夜、ひそかに寺を抜け出し、楠目村の安右衛門という者を道案内人に稚児姿に扮装させたお馬を連れて駆落ちをしてしまった。







しかし、番所を抜け、琴平(香川県)へたどりついたところを追跡の役人に捕らえられ、二人は高知城下へと連れ戻された。関所破りの罪は重い。取り調べの上、2人は繋がれて山田橋、松け鼻、思案橋の番所で、3日間さらし者にされた。純信は国外(土佐藩以外)川之江へ、お馬は安芸川から東へ追放され、神峰寺(安芸郡安田町)のふもとの宿屋で働いていた。一段落ついたかにみえたが、お馬恋しさに、純信は行商人に身をやつして、お馬のところへしのんできた。しかし、たちまちばれて純信はまた国外へ、お馬は今度は仁淀川以西へ追放となり、須崎の池ノ内の庄屋のお預けとなった。世間を騒がせたお馬の色香は、それでも失せなかった。そのうち池ノ内の大工寺崎米之助に見初められて結婚、2男2女を得て平穏な家庭の主婦となった。明治18年、東京・滝野川に移り住み、貞節な65歳の生涯を閉じた。

純信は岡本要(おかもとかなめ)の俗名で、伊予の国 川之江で寺子屋の師匠として暮らした。






純信堂






お馬の手に渡る事のなかった純信の恋文
















新しくなった純信堂の看板
(2003年10月29日・純信連寄贈